Britni de la Cretaz, “What About the Trans Athletes Who Compete — And Win — in Men’s Sports?” (InsideHook, Jan 20, 2021)

ブリトニー・ド・ラ・クリタスは、スポーツとジェンダーを専門とするフリーランス・ライター。近刊に、Hail Mary: The Rise and Fall of the National Women’s Football League (Lyndsey D’Arcangeloと共著、Bold Type Books)。

トランスジェンダーのスポーツへの参加は、バッシングにさらされています。そこではシス女性がトランス女性と不公平にも競わされている、という非難がもっぱら向けられています。ブリトニー・ド・ラ・クリタスは、この記事で、競技スポーツにおいてトランスの選手が不当に有利を得ているのではないか、というメディアの枠組みで落とされてしまっている視点を提示しています。とりわけクリタスが描き出しているのは、そうした枠組みがトランスの男の子を不可視化しているということ、そもそもスポーツは、競争ばかりが目的ではないということです。以下はクリタスの記事の要約です。

2017年のとき、エルザは高校4年生(日本の高校3年生に相当)で、メリーランド州のクロスカントリー・チームのキャプテンの一人でした。彼はまだ女子チームから男子チームに移って2年目でした。1年生の時は女子の代表チームのスター選手だったのですが、2年生のシーズンが始まる前、友人とチームメイトにトランスジェンダーであることをカミングアウトしたのです。その結果、エルザは女子チームと男子チームのどちらで競技をするか、選択を迫られることになりました。

1, 2年生の時は、最終的には女子チームで走る決断をしました。まだ男性ホルモンを始めていなかったし、家族のように思っているチームが勝つためにはエルザが必要でした。3年生の時には、もう迷う余地はありませんでした。シーズンが始まる前、男性ホルモンを取りはじめ、胸の手術をしたからです。

おそらく、アメリカにはエルザのような学生アスリートが何百人といます。スポーツをするトランスの子どもたちは、身体的な差異や競技上の有利不利をめぐる論争に包囲されています。しかし、そうした論争の中で見落とされているものは、もうすでに存在している子どもたちの物語であり、競技し、勝ったり負けたりしながら成長している子どもたちの物語です。トランス・アスリートの物語はもともと少ないですが、もしかすると中でももっとも語られることが少ないのが、トランスの男の子の物語かもしれません。

スポーツをするトランスの子どもに関する報道は、スポーツの競争という側面にばかり目を向けています。しかし、子どもたちは試合で勝つためだけにスポーツをするのではありません。トランスの子どもにスポーツをする機会を与えないことは、他の子どもがスポーツから得られる経験や様々なメリットをトランスの子どもには与えないということです。

トランスの子どもたちがスポーツから特に得られるものがあります。スポーツをすることで、まだ自分のジェンダーについて明確に語る言葉を持っていないときでさえ、自分の身体に誇りを感じられるようになります。また、自分を受け入れ、支えてくれるチームの人に囲まれ、一体感を得ることができます。トランスの若年者の実に4割が自殺を試みることを考えれば、トランスの子どもをあらゆる生活領域で肯定することは、メンタルヘルスに肯定的な影響を与えると言えるでしょう。

ところが、私たちがトランスのアスリートについて話すとき、このような観点は見落とされがちです。私たちがトランスのアスリートについての話を耳にするのは、かれらが勝利している時だけです。そのために人々は、トランスの選手がスポーツ界を支配しているかのように思ってしまいます。競技上の有利不利にばかり関心のあるメディアはトランス女性とトランスの女の子に過剰に焦点を当てています。その結果、トランス男性は不可視化されてしまうのです。

多くの孤立しているトランスの男の子にとって、不可視化には現実的なインパクトがあります。可視化されることによって、自分の将来を見通すことができ、自分の目標や情熱が可能なものだと信じることができるようになります。全米大学スポーツ協会ディビジョン1の水泳選手として初のオープンなトランス選手であるスカイラー・ベイラー(Schuyler Bailar)の物語や、アメリカ代表チームであるTeam USAへの参加資格を得、2020年1月にオリンピック・トライアルで競技した初のオープンなトランス選手であるクリス・モージャー(Chris Mosier)の物語が重要なのは、このためなのです。

2020年度には、17の州で、スポーツをするトランスの子どもを標的にした20の法律案が提出されました。2021年には少なくとも6つの州が同様の法案を提案しています。こうした法案は大部分がトランスフェミニンのアスリートを標的にしており、トランスの男の子のスポーツへの参加を禁止することを意図したものではありません。しかし、そもそも起草時にトランス男性のことが想定されていないことを考えれば、実際に法律として制定されたときにどのような影響があるかは未知数です。

トランスの子どもをスポーツから排除しようという試みにおいて無視されているのは、そもそもシスであれトランスであれ、ほとんどのユースのアスリートは高いレベルで競技することはないという事実です。ほとんどの子どもはただ友だちとスポーツをしたいだけなのです。

トランスのアスリートは困難な選択を強いられています。ホッケーやソフトボールのように男性チームの存在しないスポーツでは、そちらに移るという選択肢はありません。自分が好きなスポーツをプレイし続けるか、本当の自分として生きるかという選択を迫られるのです。男性チームに移ることができた場合には、これまでの競技人生で基準としてきた数値を捨て、まったく新しい基準に適合しなければならないかのように感じられるかもしれません。

しかし、トランスの男の子がシスの男の子と競うことができないという考えが間違いであることは証明されています。モージャーがTeam USAの一員となったことは彼が全米の男性選手の中でトップクラスに位置していることを示していますし、ベイラーは、2983名のディビジョン1の男性選手のうち443位をマークしました。これは、彼が85%の男性選手に勝利したことを意味しています。

他の男の子たちと競うことができるという経験は、たとえまだカミングアウトをする用意がないときでさえ、トランスの男の子に肯定的な影響を与えます。サミュエル・Cは性別移行前に男性チームで競技をした経験を次のように語っています。「言葉にしなくとも、こんな風に思うんです。『自分が誰であるかを示すんだ。言葉でわざわざ言わなくとも。』」

もしかするとベイラーやモージャーのような選手が可視化されることよりも重要なのは、友だちとスポーツをするふつうの子どもたちの物語かもしれません。いま、トランスの子どもたちは政治的なくさびとして利用されています。しかし、ほとんどのトランスの子どもたちは、他の子どもたちと同じように、自分のジェンダーと自己感覚を肯定してくれるような仕方でスポーツをしたいだけなのです。ところが、私たちはかれらの話をあまり聞くことがありません。

エルザにとって男性のチームメイトとの関係は、言葉ではなく、イメージの形で説明されるものです。それは彼が四年生の時にチームが激励会のために作ったビデオで、そこでは若い男性たちの一団が川にかかった倒木の上に立っています。彼らはみなシャツを脱ぎ、肩を組みながら一列になって小躍りをしています。エルザも笑顔でそこにいます。自分がいるべき場所で、他の男の子たちと同じただの男の子として。

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