下に訳したのは、タリア・ベッチャー「トランス初級講座」(※)の第2節「トランス/トランスジェンダー/トランス* 用語法」の部分です。トランスジェンダーをめぐる用語法の変遷がごく簡潔に解説されています。

※Bettcher, Talia Mae (2017) “Trans 101,” in Halwani, R. et al. eds., The Philosophy of Sex: Contemporary Readings (7th edition), Rowman & Limited.

 反トランスの言説の中ではしばしば「トランスセクシュアル」と「トランスジェンダー」が区別され、前者が配慮に値するマイノリティであるのに対して後者はマイノリティを「自称」しているだけの、配慮に値しない存在であるとみなされます。特に「トランスジェンダー」の女性は、性的な興味関心によって性別移行をしている/女性スペースに侵入しようとする/女性の権利を脅かす、等々の危険な存在であるとみなされがちです。日本の文脈では、「性同一性障害」と「トランスジェンダー」の区別がしばしば同様の仕方でおこなわれています。

 実際には、「トランスセクシュアル」(ないし「性同一性障害」)と「トランスジェンダ-」を上記のように区別することは、事実にもとづいた考えというよりも、性別カテゴリーの用法とアイデンティティの承認に関するひとつの価値判断であり、きわめて政治的な指し手です。トランスジェンダーをめぐる用語法の変遷に目を向けることは、このことを理解する上で役立つでしょう。そこには、自らのアイデンティティをどう表現するかをめぐる葛藤と、また性に関する人びとのアイデンティティの分類をめぐる争いの歴史があります。そこからは、この問題がいかにトランスの人びとのアイデンティティを尊重すべきかという方向性で考えられてきたことを学べるでしょう。それは決して何かひとつ語の定義をすればそれで片付くようなものではなく、性別の二元性を強固な前提としている社会においてトランスの人びとが直面する具体的な問題とともに考えられなければなりません。

 この点については、このサイト内の関連記事(エミ・コヤマ「『シス』は現実のものだ。たとえ、説明のされ方が不用意だとしても。」スーザン・ストライカー「『トランスジェンダー』の旅路」)をあわせてお読みいただけると、さらにこの問題の広がりを捉えられると思います。

 なおベッチャーのこの論文の簡単な紹介と7節「ジェンダー分離」の翻訳は別の記事にまとまっているのでそちらも参照してください。

トランス/トランスジェンダー/トランス* 用語法

 これまでのところ、私は「トランス男性」「トランス女性」という表現だけを使ってきた。というのも、それらは理解が容易でトランスの人びと自身によってよく使われる表現だからだ。けれど、トランスの人びとを指すために使われる用語法は実のところきわめて複雑で時にやっかいなものである。その理由は二つある。第一に、用語法は時代とともに変わるということ、もうひとつはいつの時代にも用語法に対するトランスの人びとからの強い異議申し立てがあるということだ。用語は異なったふうに――しばしば相互に対立するような仕方で――使われる。結果として、整然とした定義を用語に与えることは不可能になる。為しうる最善のことは、いかにそうした用語が時代とともに進化し、争われ続けているかを説明することである。特定のトランスパーソン個人について言えば、その人がどんなカテゴリーで自己同定しているか、またそのラベルが当人にとって何を意味しているかをよりよく理解するには、その人をよく知ることが必要だろう。以下はUSにおけるトランスの用語法の展開の簡単な説明である。もちろん用語法は世界中で異なっている。
 1950年代半ばまでには、「トランスセクシュアル」という用語は「トランスヴェスタイト」という用語と区別されるようになっていた。「トランスセクシュアル」はジェンダーアイデンティティが出生時に割り当てられた性別(sex-gender)カテゴリーと合致しない個人を指すために用いられた。アイデンティティは変化しがたいものだと考えられたので、唯一の解決策はアイデンティティと一致するよう身体を変更することだった。当初「トランスセクシュアル」はトランスセクシュアリズムを診断し手術によってそれを治療する方法と結びついた医学的な用語であった。そこでは移行後のジェンダーカテゴリーのメンバーとしてパスし、非トランスセクシュアルとして社会に埋没することが重視されていた。
 しかし90年代になると、USではトランスジェンダーの政治運動が起こる。性別移行をしながらも医療テクノロジーを利用しなかった個人を指して「トランスジェンダリスト」と呼ぶ用法はそれ以前にもあったが、「トランスジェンダー」はトランスセクシュアル、ドラァグクイーン&キング、クロスドレッサー(スティグマのある「トランスヴェスタイト」に代わって用いられるようになった語)を包摂するアンブレラタームとして用いられるようになった。この運動は、トランスジェンダーの人びとを「男性的 masculine /女性的 feminine」、「男性 man /女性 woman」、「オス male /メス female」といった二元論の押しつけによって抑圧されている人びとと捉えた。この枠組みにおいては、「トランスセクシュアル」という用語は、医療テクノロジーをまったく利用しないトランス男性やトランス女性を含むものに拡張された。
 けれどそれでみんな幸せというわけにはいかなかった。トランスセクシュアルの人の中にはトランスジェンダーの政治を受け入れず、自身をトランスジェンダーと自己同定することを拒み、古い意味で「トランスセクシュアル」という語を使う人もいた。他方で、トランス男性・トランス女性の中には、「トランスセクシュアル」という語が病理化された医療モデルとあまりに強く結びついているという理由で、それによって同定されることを望まない人もいた。そうした人びとは「トランスジェンダー」、あるいは単に「トランス」という語を使うことを好んだ。さらに、ドラァグクイーン&キング、クロスドレッサー、そしてブッチレズビアンの一部もアンブレラのもとに含まれると考えられたことについて、そうした人びとのうちにはそこに含まれることを望まない、あるいは望むけれど自分が含まれていると感じられない人たちもいた。こうして「トランスジェンダー」という用語はトランス男性・トランス女性のみを指すような使われ方をされ始めた。二元論の崩壊を言祝ぐ政治のもとで使われた用語が、もっぱら二元的なカテゴリーのもとで自己同定するトランスの人びとを指す語になったという皮肉な事態がここにはある。
 2010年代初頭までには、「トランス*」という語が新たなアンブレラタームとして広く使われ出していた。この語が使われるようになった理由のひとつは、二元的なカテゴリーで自己同定しない――ジェンダークィア(二元的カテゴリーの外に自身を位置づける)、ジェンダーフルイド(二元的カテゴリーの内外を行き来する)、エイジェンダー(いかなるジェンダーカテゴリーによっても自己同定しない)――人びとが、トランスジェンダーアンブレラのもとに自身が含まれていないと感じたことであった。この点、「トランス*」という語はより包摂的であると考えられた。しかし現在でも、この用語法に対する懸念は出てきている。そのひとつは、この新たな用語法はそもそもそれが導入される要因となった問題を再現してしまわないかということである。たとえば「トランス*男性」や「トランス*女性」という表現が使われ始めれば、再び二元論が表に出てきてしまうのである。
 最後に、「トランス*」という語が使われ出したのと同じ頃に、「シス」という(おおまかにいえば非トランスであることを意味する)語も使われるようになった。この語に関する困難のひとつに、それが使われるとき必ずしもトランスセクシュアル、トランスジェンダー、あるいはトランス*とどう対比して使われているのかが明確ではないことがある。「シスセクシュアル」「シスジェンダー」あるいは「シス*」のような表現で対比が明示されることもあるが、常にそうされるわけではない。さらに、ここまで見てきたように、(「シス」と対比される)「トランス」の意味それ自体が争われているのである。「シス」という語に関する困難は他にもあるが、この問題は複雑で、議論の本筋から外れてしまうのでここでは論じない(注)。この章では、シンプルに「非トランス」という語を用いることにしよう。

(注)より詳しい議論としてEnke, A. Finn (2013) “The Education of Little Cis: Cisgender and the Discipline of Opposing Bodies,” Susan Stryker and Aren Aizura eds., The Transgender Studies Reader 2, Routledge, 234-47.
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