Pearce, Ruth, Sonja Erikainen, and Ben Vincent. 2020.“TERF Wars: An Introduction.” The Sociological Review 68, no. 4 (July 2020): 677–98. https://doi.org/10.1177/0038026120934713.

ルース・ピアースはリーズ大学社会学・社会政策学部の客員教授。著書に Understanding Trans Health (Polity Press, 2018), 共編著に The Emergence of Trans (Routledge, 2020)。ブログアドレスは https://ruthpearce.net/

ソニア・エリケイネンはエジンバラ大学のCentre for Biomedicine, Self, and Societyリサーチ・フェロー。著書にGender Verification and the Making of the Female Body in Sport: A History of the Present (Routledge, 2020)。

ベン・ヴィンセントは、ケンブリッジ大学で生物学・自然科学と複数領域にわたるジェンダー研究の学位取得後、リーズ大学で社会学博士号を取得。著書にTransgender Health: A Practitioner’s Guide to Binary and Non-Binary Trans Patient Care (Jessica Kingsley Publishers, 2018)共編著にNon-Binary Genders: Navigating Communities, Identities, and Healthcare, Non-Binary Livesがある

The Sociological Reviewは、伝統のあるイギリス (以下UK) の社会学の学術誌です。2020年7月発行の特定テーマについての論集であるモノグラフ・シリーズで、とくに2017年以降UKを中心に顕在化しているトランス排除的ラディカル・フェミニズム (trans exclusionary radical feminism: TERF [ターフ]) を取り上げています。ここで紹介する論文はこの特集号の最初におかれ、この号の編集を担ったトランス研究の専門家3人が、タイトルの意味と論文集全体の概要を解説するものです。同時に、昨今のトランス排除をめぐる政治状況についての優れた概説にもなっています。


TERF戦争:イントロダクション

ルース・ピアース、ソニア・エリケイネン、ベン・ヴィンセント

このイントロダクションで、ピアースらは、この論集がおかれ、所収論考が介入する、政治的・社会的・認識様態的な文脈を設定します。そして、トランスの権利に対する現在のバックラッシュや、反トランス政治の政治的な様相、それらとジェンダーについての、また女であること (femaleness) や女性であること (womanhood) についての以前からの諸言説との関係を検討します。またフェミニズム内におけるトランスの諸現象についての知の構築と、より広く、トランス排除的な議論における「科学」の利用、さらにこのような議論がなされる広範なイデオロギー的様相について考察しています。そうすることで、著者らは、なぜ2020年にTERF戦争への批評的で社会的な検討が必要であるのかだけでなく、なぜこの検討がトランスフェミニスト的なものであるべきなのかを示しています。

全体の構成は、1) トランス排除的政治と「ジェンダー・イデオロギー」、2) トランス/フェミニストの諸関係、3) ポストトゥルース時代における「ジェンダー・クリティカル」フェミニズム、4) 排除の政治において「科学」と「自然さ」を利用すること、という4つの論点が提示された後、論集に収められた各論文の概要が紹介されています。

トランス排除的政治と「ジェンダー・イデオロギー」

最初の節で挙げられている、トランス排除的政治で最も顕著な事例は、イギリス (UK) での性別承認法 (Gender Recognition Act: GRA) 改正をめぐる議論です。出生証明書の性別記載手続きを簡略化することを主たる目的とした改正案に対し、議会外からの意見を聞く過程で激しいバックラッシュが起こりました。そのなかで目立ったのがウーマンズ・プレースUK (A Women’s Place UK: WPUK) やフェア・プレイ・フォア・ウィメン (Fair Play For Women: FPFW) といったフェミニスト団体の動きです。

GRA 改正に対するバックラッシュでこうしたフェミニスト団体が、何に反対し何を支持しているのかを示すポイントは二つあります。一つは、セックスとジェンダーがいかに運用されるかという点、もう一つは自己決定の尊重が何を可能にするかという点です。

一点目に、こうした団体は、「女性のセックスをベースにした権利」という言い方で、「生物学的」で物質的現実としてのセックスと、社会的役割やイデオロギーとしてのジェンダーとの区別を強調します。「ジェンダー」は変えられるが、「セックス」は不変であるというのです。こうした考え方は、過去何十年にもわたってフェミニズム研究が、ジェンダーとセックスが言説的に相互に構成すると論じてきたことを無視しています。

二点目に、自己決定を言説的に「危険」なものと位置づけます。自己決定によって (出生時に男性と割り当てられたトランス女性やノンバイナリーの人びとまで入れたカテゴリーである) 「男性」 が、自由に女性限定のスペースにアクセスできるようになるというのです。トランスの人びととその支援者たちは、こうしたアプローチをするフェミニストたちのことをよく「TERF」 (トランス排除的ラディカル・フェミニスト) と呼びますが、それは、この人たちが女子トイレや更衣室、レイプ・クライシス・センター、シェルター、フェミニストのグループといったスペースから、トランス女性やトランスの少女たちを〈排除〉することを支持する傾向があるためです。

UK国内でのGRA改正に対するバックラッシュと、それとの関係で展開されてきたトランス排除的フェミニズム運動は、国際的なトランス排除の流れから切り離せません。たとえば2016年以降アメリカ合衆国 (US) の各州で公衆トイレの使用を「生物学的性別」に一致した施設に限定する、いわゆる「バスルーム法」が提案されました。「バスルーム法」ついての反トランス的な議論では、シス女性の安全を守るためにこのような法律が必要であると主張されます。この議論では、女性「と同一化する」「男性」として位置づけられたトランス女性やノンバイナリーの人びとから、シス女性たちが危害を受け被害者になるとされています。

このような種類の議論は、古くからあるセックス/ジェンダーの本質主義的な言説の、現代的な顕在です。とくに西洋社会において、トランス女性たちはシス女性の安全を脅かすものとして位置づけられてきました。その理由は、トランス女性の諸身体が、危険な男性のセクシュアリティや潜在的な性的侵害と、言説上関連づけられてきたためです。

そしてこうした言説には、人種差別的な含みがあります。植民地主義的な歴史的蓄積が、人種化された [=《わたしたち》とは人種的に異なる《あの人たち》であるとする] 女性たちを、女性らしくない、あるいは「男性的な」ものとして、白人女性の当然視された「自然な」女性性に対比して規定してきました。(シスもトランスも) 人種化された女性たちや、ノンバイナリーやインターセックスの人びとはとりわけ、「ジェンダー不審者」として作られる傾向があります。それは有色の諸身体を、白人身体規範に照らして、ジェンダー的に逸脱したものとして位置づける言説がゆえです。

トランス排除的なフェミニストの運動を行う人たち自身は、女性であることの「生物学的に定義された」概念を、ジェンダー・アイデンティティやジェンダーの社会的な諸概念よりも強調して主張し、そのことをもって自分たちを「ジェンダー・クリティカル」であると称します。その人のセックス/ジェンダー表現 (sex/gender presentation) に沿った公衆トイレにトランスの人びとがアクセスする権利を攻撃することに加え、「ジェンダー・クリティカル」なフェミニストたちは、LGBTQI 包摂的な学校教育やトランスの人びとの肯定的なメディア表象といった社会の変化にも批判的です。そして、こうした社会的な変化というのは、この人たちが「ジェンダー・イデオロギー」と呼ぶものの結果生じると論じるようになってきています。

この「ジェンダー・イデオロギー」という言葉は、カトリック教会を中心とした右派キリスト教の反フェミニストかつ反トランス言説のなかで生まれました。過去10年、この概念はアメリカやヨーロッパ、アフリカといった地域の諸国家で極右組織や政治家たちにより採用されるようになってきました。このような勢力は、ジェンダー平等や、性的解放、LGBTQ+ の権利を、多国籍企業や国連などの国際機関によって代表される「グローバル・エリート」による伝統的な価値観への攻撃と位置づけます。この文脈において、「ジェンダー」はアイデンティティ政治や社会の可塑性を表す諸概念の代理にさせられているのです。

一方で「ジェンダー・イデオロギー」がじっさい何を意味するかは、反フェミニスト的な「ジェンダリズム」や「ジェンダー理論」とともに曖昧にしか定義されていません。「こうした用語は、空っぽのシニフィアンであり、道徳的退廃や妊娠中絶、非規範的セクシュアリティ、性的混乱を指す柔軟な同義語」 (Korolczuk & Graff 2018: 799) なのです。こうした曖昧さが、これらの用語を、従来のセックス/ジェンダー概念の崩壊にまつわるモラル・パニックを起こす効果的な道具にしています。たとえば、UKにおいてメディアのなかのトランスの存在についてのモラル・パニックには数々の矛盾があります。現状のジェンダーの制度についてその破壊と再強化の両方の責任をトランスの人びとに問い、ある文脈においては生物学を根拠に、別の文脈では社会化を理由にしてトランス女性の女性としての地位を疑問視するのです。ここで提案されがちな解決法は「ジェンダー」を法や政策の脇に置いて、女性と男性を「出生時の性別」に基づき法的に定義づけるというものです。そして2020年3月に出生証明書の性別記載変更を禁じた米国アイダホ州や、5月に性別移行を非合法化したオルバン政権下のハンガリーなどにおいて、これが法的なリアリティとなっています。

トランス/フェミニストの諸関係

とくに「ジェンダー・クリティカル」な立場では、トランスの諸主体とフェミニズムは対立するものとして位置づけられます。しかし、ピアースらは、そうしたトランスとフェミニストの関係性を枠づける仕方が、フェミニストの思想内の理解として、支配的でも正確でもないことを示しています。

フェミニズムの歴史を見れば、現在のTERF戦争というのは、フェミニズムに対立するのではなく、フェミニズムの内部における、一連の複雑な言説的かつイデオロギー的なたたかいと理解するのが妥当です。なかでもたとえば「TERF」という言葉をめぐるフェミニストの歴史とたたかいは、この論争的な状況の中心にあります。

そしてトランスのアクティヴィズムや研究を切り崩すのに、トランス排除的フェミニズム言説と並び、「真実 (truth)」や「中立性 (neutrality)」といった諸概念も引き合いに出されます。

ポストトゥルース時代における「ジェンダー・クリティカル」フェミニズム

この節でピアースたちは、これまでなら常識であった専門知識の概念や事実の認識といったものが断片化され、デジタル空間でいわゆるフェイク・ニュースの蔓延を招いている、そうした「ポストトゥルース」の時代であることが、「TERF戦争」の条件であることを論じています。

「ジェンダー・クリティカル」の論客たちは、この「ポストトゥルース」環境を喚起し、トランスの人びとの物事の見方をメディアや立法府が支持していて、それに反対するのが困難であると言います。あるいは、とくに「トランスフォビックな偏見という非難」をめぐって「批判や議論にさらされる恐怖」といった「沈黙させる」要素があるのだと言います。ところが、この「沈黙させられている」という主張そのものが、左右の政治的スタンスの差を超え、主流メディアや政治イベントにおいて、非常に大きく明確に聞こえてくるのです。

また「ジェンダー・クリティカル」とキリスト教保守派のいずれも、トランスのコミュニティや包摂的なフェミニズムを一枚岩的な「カルト」であると位置づけがちです。それも議論というより、ほのめかしを使ってそのように主張します。しかし、そうした主張の多くは、トランスの知識やコミュニティ、アクティヴィズムにある、広範に記録されてきた、イデオロギー的な多様性を捉えそこなっています。

排除の政治において「科学」と「自然さ」を利用すること

本節でピアースらは、トランス排除的な議論において、真実であるという主張の利用と悪用が、次の二点において問題を生じると論じています。一点目は、こうした議論の正当化に使われる証拠の形式について、二点目は、自称フェミニストと歴史的に「ジェンダー保守派」である諸組織との知や認識にかかわる連携についてです。

ジェンダー研究者たちは、生物学的なセックスの概念化が、異なる女性や男性たちに帰せられた社会的地位を管理する、植民地主義的で人種主義的な規範と同様に、より広範なジェンダー化された諸規範によって、いかに取りなされてきたかを示してきました。そうした統制のなかには、ある人がそもそも「男性」や「女性」としての地位を主張することができること (あるいは十全にはできないこと) も含まれています。つまり、女や男であることは、それ自体が、社会的に構築されたカテゴリーであり、時代によって変化し、異なる文脈、異なる人たちについては、異なることを意味するということです。

さらに、フェミニスト科学研究は、ジェンダー化され人種化された言語が、現代の生物学を通じて絶えず現れてきたことを例証し、生物体の物質的な構成としての生物学と、その生物体についての科学的言説としての生物学の区別をすることに価値があることを示してきました。

それに対し「女であること」を「生物学的真実」であるとして訴える「ジェンダー・クリティカル」な議論は、性差それ自体が「女性であること」や「男性であること」についてのジェンダー化され人種化された考え方によって形づくられた社会生物学的言説を通した二分法として、いかに生産されてきたかということを考慮しそこなっています。

性差について、本質主義的な議論は、「ジェンダー・クリティカル」フェミニスト団体に限定的ではありません。また特に「トランス諸身体」についての議論に留まってもいません。そうした議論は高次の政治的・政策的言説に拡がっています。

たとえば国際スポーツの規制は、社会的な理由で乗り越えられない、セックスについての生物学的な真実を根拠とします。スポーツ界の規制は、一世紀にわたり、 (すべての) 女性身体を暗に劣ったものとすることを含めた、反フェミニスト的スタンスと女性排除の長い歴史をもっていますし、生物学的な真実を根拠とする規制による排除は、グローバル・サウス出身の人種化された女性たちに不均衡に影響を与えています。ところがこうした歴史と実情にもかかわらず、諸身体を強力に司るスポーツ機関と、一部の「ジェンダー・クリティカル」な女性の権利を擁護する者たちが連携し始めています。「ジェンダー・クリティカル」フェミニストたちは、反フェミニスト組織の政治を支持する助けをしてきた、非常に特異的で、異議が申し立てられてきた生物学的「事実」のバージョンを構築し動員しているのです。

翻ってこの論文の著者たち自身が、中立的な立場から物を書いているのでも、この論集全体がそういった立場にあるのでもありません。著者らが批判しているトランス排除的な意見と同様に、ピアースらも政治的かつ個人的に、自分たちのおかれた場所から物を書いています。著者らは、個人的で身体的な自律性を妥協できない価値として中心におく、トランスとジェンダー多様なフェミニストたちであり、それと同時に周縁化された人びとの言明された経験に導かれる方法で、権力と不平等の諸構造に注意を払っています。

ピアースらは自分たちが書くこと/書くものを、ダナ・ハラウェイのいう状況づけられた知として概念化します。著者らは「中立的な」観察者や外部者としてTERF戦争を見ているのではないのです。そうではなく、こうした「議論」は、著者らの生と身体について行われており、この人たちの友人たち、同僚たち、愛する人たちの生と身体について展開されているのです。これが、この後に続く論文をまとめ上げる、著者らの動機を形づくり、ピアースらがこの論文集を紹介する、集合的に話す声とともに、トランスフェミニストの声を形づくってきたものです。