Sara Ahmed, “You are oppressing us!”, (feministkilljoys, posted Feb.15, 2015)

サラ・アーメッドはフェミニズム理論、クィア理論、人種理論などを専門とする現在イギリス在住の研究者/ライター。ロンドン大学ゴールドスミス校のフェミニスト研究センターの教授を務めていたが、学内でのハラスメント対応に抗議して2016年に辞任。著書に、The Promise of Happiness(2010), Living a Feminist Life(2017)など。

「あなた達が私たちを抑圧しているのだ!」は、2015年にガーディアン紙に掲載された公開書簡「我々は個人が検閲され沈黙させられるのを許すわけにはいかない」への批判としてアーメッドのブログに掲載されたエントリです。

この公開書簡は、次のように主張します。「〈トランス嫌悪的〉〈売春婦嫌悪的whorephobic〉な見解を持つとみなされた個人が威圧され沈黙させられるという懸念すべきパターン」がとりわけ大学で生じており、このような見解を持つフェミニスト達に対して「ノー・プラットフォーミング(発言の場を与えないこと)」の戦術が取られている。特定の見解を持っているだけでマイノリティ・グループの安全を脅かすと言われたり発言を封じられたりするのはいじめに他ならず、大学はこのような事態を見逃すことなく、民主的な政治的議論の原則を守るべきだ、と。

アーメッドはこれに正面から反論し、フェミニスト達の主張の一部に明確にトランスフォビックなものが含まれていた事を指摘して、これを反フェミニスト的であると批判した上で、差別発言に対するマイノリティからの抗議の声を「発言を沈黙させるもの」「言論の自由を抑圧するもの」として提示する語りがどのような政治的な効果を狙っているのかを、分析します。そして、この書簡自体に抗議の声が上がってもそれすら「ハラスメント」と呼ばれてこの書簡の主張を裏付ける証拠として回収されるだろう、自分たちを抑圧の犠牲者だとして提示する権力はまさしくそのように作用するのだ、と予測してエントリを終えます。

2015年に書かれたこのエントリは(最後の予想まで含め)、リベラルな装いの下で差別的言説が力を維持するメカニズムを正確に批判したものとして、今も大きな説得力を持ちます。最近の事例では、2020年7月にHarper’s Magazineに掲載されて議論を呼んだ “A Letter on Justice and Open Debate(正義と開かれた議論とについての書簡)”がアーメッドがここで明らかにしたものと同様のメカニズムを採用しているという批判が、数多くみられました。


あなた達が私たちを抑圧しているのだ!

サラ・アーメッド

アーメッドはまず、この書簡の主張が、実際には行われていない「ノー・プラットフォーミング」が行われているように印象付けるなど、曖昧で正確さを欠いている点を指摘します。けれどもこれは、単に不正確なのではありません。

「沈黙させられた」という語りは、ある種の表現を可能にし拡散するためのメカニズムとなっている、とアーメッドはいいます。

「自分には発言の場(プラットフォーム)がないのだと発言するプラットフォームを与えられ続ける人々がいたり、自分が沈黙させられているということを延々と話し続ける人々がいたりする時、そこはパフォーマティヴな矛盾があるが、しかしそれだけではない。そこにあるのは、権力のメカニズムなのだ。」

「それどころか、次のように主張しても良いくらいだ。つまり、発言を抑えられ沈黙させられているという語りは発言を促す動機となっている。そのような語りは、抑止されていると主張するまさにそのものを促しているのだ。」

そして、そのような語りは証拠を求めます。信念を裏付ける証拠を求める欲望が、挑発や威嚇を通じて、証拠を作り出す方向へと向かうのです。相手を怒らせ、そして相手が気分を害したことをもって「そうやってすぐに怒る人たちのせいで私たちの自由が制限されている」という主張の証拠にしようとするのです。

この書簡が曖昧で証拠を欠いているのは、既に存在している証拠をもとに書かれているのではなく、今のところ存在していない証拠を求める欲望に基づいて書かれているためだ、とアーメッドは指摘するのです。

さらに、この書簡が、どのような主張が沈黙させられたり検閲されたりしたことになっているのかについても非常に曖昧にしたまま、「トランスアクティヴィストの要求の一部に批判的なフェミニストはそれだけでトランスフォビアだと責められ、沈黙を余儀なくされる」というメッセージを伝えている点に、アーメッドは注目します。

アーメッド自身はトランスフォビアだと批判されているフェミニスト達の発言をトランスの人々に対し侮辱的で気力を削ぐような、トランスフォビックで反フェミニスト的発言だと受け取ります。そして、トランスのアクティヴィストがこのような発言に対応する時のやり方に問題があったとしても、上で述べたような「相手のせいで自分たちが沈黙させられている」証拠をつくりだす欲望がそこで果たしている役割についても、目を向けようとするのです。

「フェミニズム内部での排除の問題に対応しようとすること自体が、しばしば問題だということになってしまう。そしてとくに驚くべきことではないが、問題になってしまうことは、問題のある言語使用へと、繋がってしまうことがある(より広い世界で存在が疑われ異議を唱えられているからこそ自分がいられる場を探したのに、そこでも自分の存在を疑われ異議を唱えられるというのは、控え目に言って、控え目すぎるくらい控え目に言って、ものすごくフラストレーションが溜まることなのだ)。」

トランスのアクティヴィストの主張に対して批判的なフェミニストが沈黙させられている、という主張は、そこでの「批判」が正当なものであることを含意しています。例えばトランス女性はその存在自体が殺人者でありレイピストであるというような醜悪なヘイト・スピーチが一部のフェミニストによってなされていることは、消されてしまうのです。

つまりここでは、マイノリティに対して向けられた排除やヘイト・スピーチの暴力が、マイノリティの側による暴力にすり換えられている、とアーメッドは論じています。マイノリティこそが暴力を引き起こし、なんなら自分たちに向けられた暴力もそもそもの原因はマイノリティ自身だ、というように。そして、トランスの人々を暴力的だということは、トランスの人々への暴力を誘引することともつながっています。

フェミニストの主張は自由に表現されるべきであり、健全な民主主義社会の徴である議論と対話は促進されるべきだとこの書簡は主張するのですが、アーメッドはそこに大きな陥穽を見てとります。

「トランスフォビアや反トランス主張は、ハッピーなダイバーシティのテーブルについた私たちが好きに表現して良いような単なる見解のひとつとして扱われるべきではない。同じテーブルについている誰かを抹殺することに意図的にあるいは結果として、同意する人たちがいる時、対話など成立しない。(あなたが生き延びるために何が必要なのかをわかっていないために、あるいはあなたのような存在がそもそも可能だとすら思っていないために)あなたを会話の場から消しさろうとしている人々と「対話や議論」をすることになってしまったら、その「対話や議論」は抹殺のテクニックのひとつとなる。したがって、ある種の対話、ある種の議論を拒絶することは、生き延びるための主要な戦術になり得るのだ。」

トランスアクティヴィストを、絶えず自分たちの存在の権利を擁護するよう迫られているマイノリティではなく、声高な圧力団体であるかのように描き出すことは、それ自体が権力のメカニズムだ、とアーメッドは言います。このメカニズムは残念なことに機能し続けており、そのトランスフォビックな主張はトランスの人々の生を暴力的に削っているのだ、と。そしてアーメッドは、この書簡への抗議が上がったとしても、それはたちどころに「ハラスメント」とみなされ、この書簡が述べているのが真実である証拠として用いられてしまうだろう、と予測します。このメカニズムはまさしくそのようにして作用するのだ、と。

「かくして、言論の自由は、ある人々が時間と空間とに場を占める権利をめぐって自由を再定義するために使われる、政治的なテクノロジーとなる。抑圧者とされるのは〈他者たち〉、不正について語ったらその語りが不正であると非難されることになった人たちである。

私たちは言わなくてはならない。これは不正である、と。」